『美しいということ』

タイトル『紅』      作・米島虎太朗
タイトル『紅』 作・米島虎太朗

先日、上野の東京都美術館にて絵画と写真の展覧会を見る。

久しぶりの上野の森。

日差しは結構暑かったけど、木陰に吹く風が涼しくて気持ちがいい。

駅から美術館まで、ゆっくり散策。いつもは近所の公園や川沿いを歩くんですが、木漏れ日の中を歩くのは最高にいい気分☆

沢山の人が歩いている。老いも若きも家族連れもカップルも或いはひとりで。そんな人々のすれ違う中、本来ならウンザリするはずが、なかなかそれも楽しい。その後、あえて人々の群れを余所目に、森を通り抜ける。

ヒンヤリした風を感じ、木々の緑の枝先の向こうに蒼空が見えた。瞳の中に太陽光線が創り出す光の輪が見えた。

ふと歩きながら、地元の駅のホームから見上げた時、薄い雲の間に逆さになった虹の弧を見たのを思い出す。上空には冷たい氷の粒があったのかもしれない。虹は普段とは逆向きに薄く七色の光を発しながら、ホームの上空に佇んでいた。その逆さの虹を見た後、今度は上野の森で、光の輪を見たわけだ。

美しさとは一瞬の奇跡なんだな。そのモーメントを逃すと決して同じ体験はできない。保存することも、見返すことも本来はできない。演劇や音楽に関わっていると、つくづくそう思う。同じことは二度繰り返せない。

しかしながら、写真や絵画というジャンルは一瞬を凍結させる芸術であります。勿論、演劇も映画も音楽も瞬間の凍結の側面もありますが、それでも「静」という要素は写真や絵画にこそ相応しい気がします。

木漏れ日の中を通り抜け、美術館の中に入り、一階の展示室の一番奥に、その作品は静かに掲げられていました。

『紅』

和傘の紅色が太陽光に照らされ輝く風情が、一瞬の揺らぎの中で切り取られていました。

学校という圧倒的な制約と圧力の中、懸命に戦っている君の見た景色は確かに「美」そのものでしたよ。

美は制度を超える。

とても大切なことを学んだ気がするんですよ。美しい瞬間に素直になれる、というのは一種の特権だということ。

そして、どんなに大人たちが、政治的に忖度しても、制度を盾に圧迫を加えても、美を見出した人間を止めることはできないのだ、ということを。

大人たちの尺度に合わない若者が次の時代を創り出すんだよ。

その意味で、この作品が新人賞を取れたことは、大人もまだまだ捨てたもんじゃないな、という証かもしれないね。

美しいということは、決して万人ウケすることではなくて、静かに対象と瞬間を共有し合う交流から生じる「結晶」のようなものなんだろうな。

上野の森で、僕はとてもリラックスして、美を楽しんだよ。

ありがとう😊y

僕たちの時間


【イーハトーブの5月の風景    2018年5月撮影】



『僕たちの時間』


気がつくと平成から令和に変わっていたって感じ。

元号が変わろうが、僕らの生活は基本的に何も変わっちゃいない。当たり前だろ。

むしろそれより、逆に元号が変わる以上に、毎日変わっているといった方が良いかもしれない。停滞や思考停止ってのは、日々の変化に気づかない周囲のイベントの変化に振り回される精神状態から生まれるような気がするね。

僕たちは政府や権威に設定された時代や時間を生きているのではありません。僕たち自身の持って生まれた時間を生きているのです。

なのに日々を暮らしていると、時々、この世界に生まれたことが奇跡だという大切な事実をつい忘れてしまうようだ。

僕たちは人生を通じて、それぞれの時間を生きているんだぜ。なのにその貴重な時間を、むやみに売り渡してはいないか?

大人ならば会社の仕事という絶対的な義務のために、学生ならば学校や教育システムという既存の大きな枠組みの中に取り込まれて、あるいはまた、友人の和を乱さないためだったり、家族のしがらみに巻き込まれていたり、様々な形で、良くも悪くも僕らは自分自身の時間を奪われているのだと自覚したい。奇跡のような日々を押しつぶす様々な要素に無自覚なのは本当に残念なことだ。

例えばこの数年、中学校や高校で運動クラブの拘束時間の問題があります。

勉強も大事、スポーツも大事、芸術も大事。

あまりにも当たり前のこと。

ところがここ二、三年、運動部が異常なほど長時間にわたる練習時間を取り、土日は試合が入るという週七日制が定着してきているようです。

クラブ活動優先のため、他のことが何もできないという状況に陥っている生徒を僕はすでに何人も見てきました。

バランスが悪すぎでしょ。

僕たちの時間は限られている。一週間に七日間、運動クラブをすることが本当に幸福なのかな。もちろんその競技が大好きで大好きでたまらないという人はいると思うし、実際国の強化選手ともなればそういうことは当然でしょう。だけど、一般の生徒たちが週七日運動クラブ漬けというのは本当に健全なことなのだろうか。これで本当に心身のバランスが保たれていると言えるのだろうか。特に学校生活において、それは有意義といえるのか。

僕たちの時間は、僕たちが選ぶべきです。

そして、彼らの時間は、彼らに選ばせてください。

その大切な時間を奪ってまで、子供たちを運動漬けにするのは常軌を逸していると僕は思う。ぜひ多くの学校にお願いしたい。運動クラブのクラブ活動をすることで加点するというシステムを見直していただきたい。運動クラブをやらないと協調性がないと批難しないでいただきたい。試合に出る限り授業を受けなくても良いというやり方は確実に間違っているので、やめていただきたい。

企業がブラック化していると言われて久しい昨今ですが、学校のクラブ活動もオリンピック前で調子に乗ってブラック化していませんか?

この極端な傾向はここ数年のことであり、かなり一時的なことだと思いますが、無自覚なままでいるわけにはいかないほど悪化している。

毎日のように様々な生徒たちと時を過ごしながら、僕たちの時間をなんとしてもとりもどさなければと思う今日この頃です。

運動もやり、勉強もやり、芸術もやり、結局はなにごともバランスではないでしょうか。

だから、僕は芝居をやり、音楽をやり、英語をやり、演劇論をやる。楽しい!これだな。他人の時間を無駄に奪うこともなければ、自分の貴重な時間を奪われることもない。みんなが豊かになれる。バランスだよ!!

僕たちの時間は、僕たちの豊かな時間にしたいものだね。

アイツが還ってきた!

先月、オーストラリアから一人の青年が帰国した。

教え子の成長した姿を見るのは、本当に嬉しい。日本にいた頃はちょっとダメダメなところもあって叱り飛ばしたこともあった。でも、それも今は昔のお話しさ。

僕も90年代初頭、オーストラリアのブリスベーンで仕事をしていたので、彼の話を聞くのは懐かしさも感じて嬉しくてならない。
もう四十年近くも仕事をしていれば、最も初期の生徒など既に五十を越えている。本当に多くの生徒たちと出会い交流してきたが、やはり還ってきた姿を見たとき、なにかこみ上げるものがある。これも歳を取ったせいなのか。

つくづく思うことがある。
学ぶとは一人の作業だよね。一人で旅をすること。今ここにいても、孤独を受け入れて、心の旅に出ること。学ぶってのは、そんなことなのではないのだろうか。

実際に外国に行って、一人で旅し生き抜いてきた人間は、確かに学んで還ってきたのだと思う。それは孤独をいやがおうにも受け入れて、世界と対峙した経験が一回りの二回りも人間性をでかくする。

アイツが還ってきて感じたこと。それは、「孤独の力」だな。

最近、僕も遅ればせながら生徒たちとV-netの名物キャロムをやるんですが、まだまだヘタクソなのに偉そうに言わせてもらえば、キャロムというゲームにしても、集中すると「孤独な思考」が試されてるんだね。自己に埋没する瞬間がないと直感も働かず、自己の孤独と向き合うことで集中力が増し指先のコントロールも研ぎ澄まされていくようです。なかなか楽しいぜキャロム☆

アイツが還ってきて、いろんなことを考えさせられています。

そんな「孤独の力と学びの関係性」が、今の学校における運動部の部活から、多く抜け落ちている気がするのは気のせいでしょうか。そこにあるのは、むしろ「支配の力」のような気がします。この辺の話は、また別の機会に!

帰ってきたアイツが、今度V-netで新しいレッスンを行うようです!
もしよかったら、ご参加下さい!

READ ALOUD -Elementary Course-

勉強ができるとかできないとか

『勉強ができるとか、できないとか』

春ですが、いかがお過ごしですか。
僕は相変わらずロックしながら生きてます。
英語を教え、レッスンに燃え、芝居を考え、音楽を創り、大学で講義する。ぜんぶ僕にとっちゃロックです。
何故にロックなのか。
何よりも自由であろうとするその気持ちが、今を精一杯生きさせてくれる。権威も御託も何もいらない。必要なのは何に対してもRespect感を持つこと。自分を過大評価も過小評価もしない。自然のリズムに身をゆだねること。細胞が沸き立つことを良しとすること。面白がること。夢見ること。馬鹿にしないこと。自分が人生の主人公であることを喜ぶこと。シラケないこと。己の愚かさと共に生きること。
そんな生き方こそ「ロックする!」ということだと思うんだ。
今、この時代、もうすぐ平成というのも終わるらしいですが、ロックしてませんね。音楽も著作権管理団体とかがうるさくて、巷から音楽が消えて久しいです。でも、その分JAZZやCLASSICが牛丼屋さんでもかかっているというのは、なかなかに素敵です。
とはいえ、個人では楽しく音楽を聴くことも、楽しく映画を観ることも可能です。今のところは。
でも、どこか息苦しい。便利な世の中だけど、息苦しいのは否めません。
ある日、ひとりの生徒がこう言いました。
「僕は勉強ができません。だから、学校ではみんなに見くびられています。くやしいけど、しょうがないんだ。僕は勉強ができないから…」
どうも子供たちにとって学校の成績が、大人にとっての年収のようなものらしく、互いにさぐり合い、マウンティングしながら、牽制しあい、哀れんだり、馬鹿にしたりといった、痛々しい状況があちこちでおこっているようです。
今が特別とは思いません。こんなことは昔からあったんだ。でも、そろそろ気がついてもいい頃じゃないだろうか。
勉強ができるとか、できないとか、どうでもいいんだぜ!
そんなのはただの結果にすぎないんだぜ!
大切なのは、力をつけて、様々な規制から自由になることなんだ。
くだらない足の引っ張りあいの人間関係も、一種の規制なんだぜ。マウンティングしあうのも規制だし、徒党を組んであざ笑うの規制なんだ。
だから、そんなところからいち早く離れた方がいいに決まってるだろ。
勉強ができるできないが問題なのではない。
「馬鹿からの脱却」こそが必要なんだ。なぜなら、この世界は勉強のできる愚か者でいっぱいじゃないか。気がついてるだろ。周りを見てみろ。
だから、ロックしようよ!
周りの目なんか無視して、自分を磨くんだよ。
誰よりも自分の馬鹿に、愚かさに、自覚的になり、群れずに、自分のリズムを感じるんだ!
勉強ができるとかできないとか、そんなことはそれほど重要なことではありません。
勉強ができない、それは単なる出発地点。
だれもが皆、そこからはじまるんだよ。
でも、
勉強ができるようになっても、気をつけるんだよ。そんなのは結果にすぎないから、馬鹿が、己の馬鹿がいつの間にか忍び寄るのさ。
そうして、人生とは、いつも笑えるものになる。
深刻さは、時には、いろんなものを台無しにする。
だから、
笑いながら生きような。愉快に生きること。それがロックさ。
またな。

ストップモーション クレイアニメ ワークショップについて☆

久しぶりです!
あの暑かった夏も過ぎ、台風の季節ではありますが、夕方などは少し秋めいてきました。虫の声の生える季節です。最寄りの駅のホームではトンボが沢山飛んでいました。
今日は、僕の友人の「トモコ・ガルシア」先生のワークショップについて書いてみます。
先生は僕の古くからの友人で、昔は一緒に舞台を創っていた時期もあります。やがて彼女は美術の世界で、特にイラストの世界で仕事を重ね、多くの作品を発表してきました。
僕は演劇、彼女は美術だったわけです。
昔からとてもユーモアのある彼女でしたが、その作品も絶えず何処かにユーモアが漂うものです。
そして、可愛い。

ストップモーション クレイアニメ 作品例1

V-netという自由な空間だからこそ、自由な創作の悦びが発揮され、空間が悦びで満たされるのではないかなと思っています。
僕は非常に嬉しい。
それは、学習というモノが、遊びであり、遊びの延長で、遊びそのものだということの再確認です。
今、この時代を覆う暗い政治状況や自然状況、更に経済状況の中で、子供たちが思いっきり遊ぶということがどれだけ可能だろうか。絶えず繰り返し思うのは、V-netという奇跡的な場所は二つとない場所であるということ。ここには「アソビ」があり「マナビ」がある。
ガルシア先生にやっていただきたいのは、手を使った自由なアソビ。
そして、現代のデヴァイスを使いながら、古き良き時代の「工作」を楽しむということ。
人生を通じて、それを実践してきた彼女だからこそ、不思議な楽しい時間を参加したみんなが過ごせることを、僕は請け負います。
ぜひ、楽しんでいただきたい。
そのままでは動かぬモノに「命」を吹き込んでもらいたい。
黙っていれば見過ごしてしまうようなごく普通の「野菜の言葉」に耳を傾けてもらいたい。
トモコ・ガルシア先生のワークショップは、お気楽にワイワイやりながら、気がつくと生きていることがワクワクしてくる不思議なワークショップ☆
みなさん!ぜひ参加してね!!

『3年と1年のお話』

『3年と1年のお話』

さて、先日書いた二人の他に、更に今年は僕に強い印象を残した生徒がいました。

◼️「3年と1年の物語」

彼と出会ったのは、彼がまだ高校一年の時でした。

小学生の頃Vnetに来ていた彼は、高校になって再びやってきたというわけです。でも、ある意味それは最悪の再会だったかもしれない。というのも、彼はその時、とある進学塾で完全に打ちのめされ、英語が苦手でどうしようもないコンプレックスに陥ってしまっていたから。

頭ごなし、十把一絡げ、相当スパルタな指導を受けたようで、すっかり弱ってしまっていたのです。

そこで、焦らず「地味に」やっていこう‼︎ということになり、基礎的な文法からやがて難解な入試英文法までバリバリ解き進んで行きました。勿論地味に。

そして、決まったように、レッスンの最初の三十分は英語音読(Read Aloud)をやりました。

気がつくと2年生になり、英語は苦手科目どころか、むしろ得意科目になっていました。

ボロボロだったあの頃から、徐々に強くたくましい青年になっていきました。

3年生になり受験は医学部だけを狙うことになりました。しかし、残念ながら結果は不合格。浪人が決まった時、もう一年頑張るという連絡を受けました。

辛いことではあるけれど、人にはその人の進む時間があるようです。彼はその時間を受け入れ、生きた。

そして、今年。彼は慶應大・医学部と東京医科歯科大学に合格し、東京医科歯科大学に進学が決まりました。

うまくいってよかったじゃない、などと人は気軽に言うかもしれない。

でもね、当たり前のことですが、この世に、有り余る余裕を持って受験をする人など一人もいません。みんな何か抱えて悩んで苦しみながら学んでいます。そんな時間が僕らをたくましく成長させるのだと思う。

人は皆自分の時間を生きるんです。親も、まして他人には計り知れない時間を若者たちは生きている。

3年と1年後、顔つきもすっかり変わって大人になった彼が会いにきてくれました。苦しみを経験し、苦闘を経て、大人になったんだね。

僕は何よりもそれが嬉しい。

◼️3年の物語、そしてまだ続く

中学一年になったばかり、中学受験に挫折して、自身を少し失っていた頃、僕は彼と会いました。

何よりもまず、彼はとても素直な子なので、逆に心配になるぐらい幼い部分が抜けきれませんでした。

その彼が、今年、高校受験だったわけです。

僕が彼から学んだひとつは、決してひねくれることなく、一所懸命頑張るということ。

今、この時代、頑張るということが非常に言いにくい時代になりました。

「頑張る」は人に時として必要以上のプレッシャーを与えるので、できるだけ頑張らない方が、今はウケがいいわけです。

何事に対してもも、確かにリラックスが基本姿勢ですが、「頑張る」もある程度必要だよ。

昔、演劇の師匠から「必死に生きなさい」と言われたけれど、勿論舞台の上でね、でもそれだけじゃなく何事においても「必死」って大事だよな、と思う今日この頃です。

要領よく上手いことやって、苦労せず、カル〜くチョイチョイと合格したいと思っても、決していい結果は出ません。よしんば出たとしても、それは本人のためにはなりません。必要な試練を経ずして手に入れたものの価値は、自ずと低いからです。

必死に頑張る姿勢。時々、涙が頬を伝うくらい追い込まれても、カッコ悪いぐらいのたうち回り、決して諦めない必死に頑張る姿勢が、人生の価値を生むのだと僕は思う。

彼はそんな人でした。確かに途中弱気になったり、混乱したり、色々のことを経験しましたが、最後には勇気を持って受験に立ち向かっていきました。

結果は、残念ながら第一志望は駄目でした。

が、第二志望に合格。

悔しい気持ちを抱えました。でも、いい戦いを繰り広げると、結果は実に爽やかです。

今、その高校へ行く準備をしているわけですが、会う度に生き生きとした表情で、今後の生き方を語ってくれます。

そして、幼かった彼の表情が、心なしか「大人」びてきたのは気のせいでしょうか。

彼との、まずは前半の3年は終了しました。これから後半の3年を更に充実させたいと思います。そう、まだ人生は続くんです。

この物語でも、わかることは大事なのは結果なんかじゃなく「プロセス」なんだということ。上手いことやろう上手いことやろうとする前に、今を必死に生きれば、自分にふさわしい結果が付いて来る。そう考える方が良いのでは?僕はそう思います。

幸福は必死に生きたオマケです。

「結果だけが全て」という「新自由主義的欺瞞」からいち早く脱却し、真に有意義なプロセスを生きようする方へ精神と魂をシフトしていきたいものです。

今年もまた、多くの生徒から、沢山のことを教えられました!

ありがとう!

生きててよかった!!!!

『6年と3年のお話し』

 
『6年と3年のお話』
都内の桜が咲き始めたそうですね。
三月も後半にさしかかり、受験生の進路がほぼ決まったようです。
毎年受験生と供に過ごし、気がつけば春になり、一年が過ぎる。こんな暮らしを三十数年続けてきました。自分自身がそうだったから思うのですが、受験が終われば、結果が出れば、すべてが終わって振り出しに戻るような気がします。でも、果たしてそうなのだろうか?
先日、ある古い友人が「戻れるとしたら。いつの頃に戻りたい?」と質問してきました。いろいろ考えますね。小学生のあの頃や、高校受験や女の子にフラれた頃や、苦労した大学受験生の頃。。。それでも、結局どの時代にも僕は戻りたいとは思わなかった。
その時その時必死に生きてきたので、もう戻りたくないな。むしろ、ゆっくりでいいから前へ進みたい。チェーホフの登場人物ではありませんが、前へ前へ、と進みたい。振り返ることはあっても、戻ることはない。だから、また振りだしなんてこともありません。僕は今はそう思う。
今年は特に僕にとっては「6年」と「3年」と「1年」がキーワードでした。そのどれもが「前へ前へ進んで」気がつけば6年、3年、1年が経っていたというわけです。そして、それぞれに物語がある。
今日はまず「6年と3年の物語」をお話しします。
■6年の物語
彼と出会ったのは、中学一年生の頃でした。とても静かな子で、英語の音読も決して大きな声にはならず、どちらかというと囁くような優しい声で読んでくれます。READ ALOUDがこんなんでいいのかぁ?とは思いましたが、これが彼のスタイル。
クラブでは海洋生物に夢中で、海に魚を漁りにいっては仲間と美味しく頂いていたようです。そして、ニコ動も大好きという少年でした。
そんな彼は常にマイペースで、でも決してだらしなくなることもなく、規則正しく、淡々と月に四回のペースで英語のレッスンを続けました。
中学を終え、気がつけば、高校生になっていました。
背もどんどん伸びていきます。体育祭でかなり危険そうな騎馬戦の馬になり危険な眼にもあったような、ないような。。。
それでも彼の生活はマイペース。海に行ったり、ニコ動観たり。。。
彼は、おそらくこの三十年という時間の中で僕と一緒にもっとも多くの英文を読んだ生徒の一人です。そして、僕自身が英語のレッスンの中身をあれこれと改良を加えるきっかけを与えられた生徒でした。
そんな彼が、僕と出会ったときのことを、つい最近話してくれました。そして、彼の当時の気持ちをはじめて知りました。
「先生、僕は先生と出会ったとき、本当は英語に自身がなくて、苦手で苦手でどうしょうもなかったんです。どうしようかと思ったとき、先生と会って…」
えっ?と僕。
一度も苦手だなんて言わなかったし、そんな素振りもなかった。むしろ得意なんだと僕の方が思いこんでいた。だからこそ、その彼の言葉が、胸に突き刺さりました。思い出したんです。あの音読するときの彼の囁くような声を。
そうか。。。僕は彼がただ恥ずかしいのだと思っていたけれど、そうではなくて自信がなかったんだ。6年も経って、初めて知りました。
そして、その自信のない英語を実は6年かけて彼は人知れず克服していったのだと、僕ははじめて知らされました。
知らない人は、君をただ優秀な人だとか、頭のいい人、といった言い方で表現するかも知れない。
でも、僕は知っている。
君が、類い稀なほどの努力家であるということを。努力ですべての希望が叶うとは思わないが、努力が人を創るのだということを、僕は君から学びました。
がんばったね☆ありがとう!!
彼は今年、東京大学に入りました。
■3年の物語
彼女とは高校1年生の時に出会いました。
たしかお知り合いの方のご紹介だったと思います。彼女もまた、とても静かな子でした。僕が一人で大声でしゃべる、そんなレッスンでした。
はっきり言って「READ ALOUD(英語音読)」は大声でやる方が効果はあるんです、ほんとはね。でも、彼女は静かでした。
しかし、そんな彼女も月4回、一度も休むことなく3年間レッスンに通ってくれました。雨の日も雪の日も。
最初は学校の英語の予習をしていたんです。学校の英語のペーペーバックを一緒に音読するというのが基本のレッスン。それを一年継続し、その後徐々に独自の僕のカリキュラムでレッスンが進んでいきました。
彼女の最大の問題は、「特にやりたいことが見つからない」ということ。この悩みはけっこう今の多くの生徒が抱えている現代の問題でもあります。様々なことで苦労が足りないからとか、いろいろ言われますが、僕はどうも違うような気がする。選べないのには訳があると思うのです。恐らくそれは、傷つくことを恐れる傾向かな、と。
失敗を親も子の怖れるこの時代、たとえやりたいことを口に出しても、不可能なことの方が目につき怖くなってしまう。だったらいっそのことやりたいことを持たない方がいい。そんな時代の傾向があるんじゃないかと、思っています。
ところが、幸いなことに、彼女との三年間で徐々にではありますが、社会学や社会科学的な分野に興味を感じ始めてくれたようです。社会学等の文献を英語で読むことも多く、僕自身リベラルアーツのごとく、読む英文にプラスアルファで様々な話題を取り上げました。そして、目標や目的がなかなか見つからなかった彼女が大学を選ぶとき、社会学の方面を選んだのは三年間の集大成だな、思いました。
「この学科がやりたいです」と彼女が言った時、本当に嬉しかった。何しろ今だにこの時代では自分がやりたいことを自分で決心することが本当に難しいのですから。
彼女は立教、上智、早稲田に合格し、早稲田へ進学を決めました。
もちろん、社会科学を専攻します。
合格は嬉しい。
でも、本当に嬉しいのは、その過程です。燃えるような勉強の挙げ句の果てに「合格」はオマケのようにやってくる。
重要なのは、すべて「過程」なんだと思う。
要領が悪くても、一生懸命勉強する姿がダサくても、真面目ぶってと揶揄されても、コツコツ日々努力して高まっていく喜びがあればどってことない。
僕は今年も教えられました。
派手じゃなくても、しっかりと歩めば、そこに道ができ、光がさしてくる。
地味にスゴイんじゃありません。
地味がスゴイんです!
そして、to be continued!!!!!

英語音読と英語読み聞かせの可能性

「英語音読と英語読み聞かせの可能性」
 
新年も過ぎ、早くも一月も中頃を過ぎました。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
年頭にあたり、今最も大切だと思われることから、今年のブログを開始したいと思います。
実はこのところ、世の中の過度の英語偏重の影響か、幼稚園児や小学校低学年(一年~三年)のお子さんをお持ちのご父兄から相談を受けることが多くなりました。
中には、「もう日本語は必要なくなりそうなので、英語メインの教育を。。」などと仰られる方もいらっしゃいます。
ですが、それはとても危険で危ういことのように思われます。第一言語を失って良いはずがないからです。この世の中がどれほど英語の国際語性を煽ろうと、母国語を失うということは自らの寄って立つアイデンティティを放棄することに他なりません。これは発展や成長ではなく、むしろ喪失であり退行です。
従って、早期教育とは言いますが、日本語が不完全な、あまりに幼いうちから外国語を押し付け教育しようとすることは決して良いことばかりではない、ということはぜひ心に留めておいていただきたいと思います。
そうした前提を踏まえた上で、幼稚園児から小学校低学年までの英語教育はどうしたらよいのか?今、それは大きな社会問題になりつつあります。そこで、僕はそれに対する新たな方法をここで提案したいと思います。
それが「お母さん/お父さんの英語絵本読み聞かせ」という方法です。
現在、数年ぶりに復活した「英語音読・READ ALOUD! 日曜クラス」が国分寺のカフェスローで行われております。
このレッスンは僕自身のこれまでの経験と、その実感から生まれました。
このメソッドは実に単純明快です。
幼い子供にただ英語を無理矢理教え込もうするよりも、むしろお母さんやお父さん自身が英語音読(Read Aloud)を習い身につけることで、家庭内で英語音読が継続的に行えるというシステムです。
ご家庭で日本語の絵本の読み聞かせの間に、英語の絵本を読み聞かせることで、ごく自然に、スムーズに英語の音の世界に移行できます。
僕自身、幼い頃、父やアメリカ人やカナダ人の宣教師さんの読んでくれるベッドタイム・ストーリーズを聞くことで、自然に英語の音の世界に誘われたのを思い出します。その思い出が、このメソッドにはつまっています。
母に平凡社の世界名作文学を読んでもらい、その傍らで父に当たり前のように読んでもらった英語の物語は、僕という人間の一部分を確実に形成していると思います。
早期教育というと、幼い子供たちに教えることを意味するようですが、そうではなく、親が学ぶことが早期教育になるという、こんなことがもっと一般的になればいいのにと切に願います。
小学校の三年以上になれば、日本語も徐々に固まりつつあり、外国語の習得も母国語の妨げにならないでしょう。そのぐらいから通常の英語音読Read Aloudの個人レッスン等に進んでも遅すぎることはありません。むしろ、小学3年生からV-netのRead Aloudをぜひご活用ください。
その学年以前のお子さんをお持ちの親御さんで、英語の開始とその修得が気になる方は、ぜひ親のための英語音読レッスンをお勧めいたします。
このようなレッスンの良い点は、お母さんやお父さんが英語音読レッスンしている間、お子さんも一緒に遊びのように参加できるという部分ですね。
ぜひ子連れで英語音読をしましょう!
そのお母さんと一緒に遊んでいる雰囲気こそが貴重な早期教育なのですから。」
「親のための英語音読レッスン」の詳細は下記をご覧ください:
国分寺カフェスロー
英語音読・READ ALOUD! 日曜クラス

焚火の会に行ったぜ☆

今朝は(現在30日、午後9時22分)千葉は大栄にて恒例の「焚火の会」が行われました。

僕はかつて奥多摩での「大人の焚火の会」に出て以来の参加、しかも千葉は初でありました。
時折霧雨の降る中、しかしそんなことはどうでもいいくらい、流石に焚き火は良かった。
気がつくと僕は、今回は秋刀魚を焼く係になって焚火というより「炭火の人」になってましたよ。はい。
で、まずざっくりと時系列で振り返ってみましょうね☆
朝8:45
東京駅集合
 
そして、10:16東京駅出発
これはバス隊の人たち☆
 
そして、目的地「大栄」到着
 
 
ああ、秋刀魚を焼いた炭火と網ダヨ
 
やがて、、、、夜が来る
 
焚火の光は夜がいいんだよね☆
紅く限りなくオレンジ色に近い光を発する種火は、まるで宝石のようだ。
美味しいお肉も、最高の秋刀魚も、煙の香りもすべて素晴らしいけど、「火の色」は、格別でした。夜の焚火は味わうべき‼︎
 
人懐っこい犬君とも遊んだよ‼︎
 
温泉の休憩室でサザエさんと子どもたち!
焚火の後の温泉最高ーー‼︎‼︎
帰って参りました‼︎東京駅ィー‼︎
この風景もなかなかですな。

 

 
こうして東京駅へ帰って来たというわけ。
いやー楽しかったよ‼︎‼︎‼︎
まだ未体験の方へ☆
これからも続く「Vーnet焚火の会」
( ゚ ρ ゚ )ボーっとするのもよし、あれこれするのもよし、揺らめく炎を見つめながら自分自身の人間の部分を快復させたいものです。
受験の前に、まずは原始人から始めましょう‼︎‼︎‼︎‼︎
 
僕とバス隊として現地へ向かった若者たち☆
みんないい顔ヽ(=´▽`=)ノ
ありがとね☆(ゝω・)v

『不安』の話

この季節だから、あえて書くね☆
「不安」の話。

人間はいつだって不安とともにあるよね。
不安のない人生などあるはずがない。不安のない人間なんかいやしない。だから、ちゃんと不安になろうじゃないか。

この季節になるといつも思うのが、何故に人はそれほどむやみやたらに恐れるのだろうか、ということ。不安の中に留まり、自分の不安の原因と向き合うことなく、誤魔化したり知らんぷりしたりすればするほど、不安は悪化するんだな。不安は不安のままでいい。不安は緊張感を生むし、不安だから必死になれる。不安が、目を覚まさせる。不安は精神の強壮剤でもあるんだよ。
ただ不安感の中に閉じこもって、もう戦えないとうろたえるのは自分と向き合ってない証拠。むしろ不安と戦おうとするのではなく、不安と共に生きてください。
不安は、君の味方です。案外そんなもんです。

若い受験生だけが不安なのか?
いや、全世界の人間が、内に不安を秘めて生活しています。
年齢とともに不安は消え失せるかというと、そうでもない。むしろ、人間はその時々の状況に応じた不安感に苛まれるようです。そして苦境をひとつひとつ乗り越えていく。やはり、不安こそ人間の防衛本能であり、自らの身を助ける有益な反応だと思うのです。

秋は食欲の秋だったり、読書の秋だったり、文化の秋だったりしますし、紅葉も美しい季節でもあります。ですが、やはり不安になる季節でもあるんだよな。いっそ冬になれば気持ちも定まるんだけどね。

必死に苦闘できるエネルギー源として不安と共存していきましょう。
より良き明日は、不安を直視する勇気の向こう側にある。
この秋を有意義に生きていこうね!!!!
 
今度の日曜日は久々に僕も焚き火に参戦しまーす!!!!!楽しみぃ〜!!!!!!!!

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