『嗚呼、英語の発音問題よ!』

ご無沙汰でした!!!!

本当に久しぶりのブログ更新です。昨年度は近年では希に見る多忙の年となり、ブログもアップできない情けない有様でした。ごめん。許してね。

というわけで、今後はもう少し頻繁に更新していく所存です。

今回は、近年度々質問される英語の「発音問題」に関して、一言申しておこうと思います。

まず、受験的視点から見ますと、発音問題は「某国の陰謀」だと、都市伝説的にハッキリ言い放っておきませふ。日本以外の一体どの国の英語の問題にアクセント問題や発音問題が出題されますか?他にはないのです。センター試験と一部の学校の入試問題以外今や発音問題は出ません。それは、何故か?意味ないからです。そもそも、米国と英国では発音は異なります。たとえばセンター試験の発音問題は米国式なのでしょうか?それとも英国式なのでしょうか?いや、そもそも、ごく一般的な発音なのだから、偏りのない、いわゆる日本語で言えば「標準語」のテストのようなものだとでも言うのでしょうか?ならば、東北出身の訛った日本語は日本語としては間違いなのでしょうか?。。。。。。。

僕はなにも屁理屈をこねているわけではありません。

日本の入学試験の英語で出題される発音問題の主旨の曖昧さとその目的の胡散臭さを問題にしているのです。

日本人は英語の発音がヘタクソだと、刷り込まれているんじゃありませんか?

あのめんどくさい発音問題が得意になれない日本人は、英語が一生無理とでも教え込みたいのでしょうか?

僕は発音問題が超得意などという人を見たことがないのですよ。ネイティブでも、発音できても、発音問題を間違わずに解答するのは難しいと思います。

例えばね、Canという単語がありますが、米国人は「キャン」ですが、英国人は「カン」に近い音になります。

母音の音が違います。

ハッキリ言いましょう。ひとつだけ正しい標準的な英語など、どこにもありません。それぞれの出自によって異なる英語を使うだけです。そして、好みの問題でもある。割と喉声になる米国風味が好きか、割に口の前気味に音を出すブリティッシュ風味が好みなのかで、すでに音は変わってしまうのです。

受験の発音問題は、ほどほどでよろしい。決して満点取ろうなどと思わなくて良いと思います。取れたらラッキー!取れなくても気にするな!と僕は言いたい。寧ろ、他の問題、特に長文で点数を稼げ!!

さて、とはいえ、発音は大切です。

それは、人は出せる音しか聞き取れないからです!!

実際に英語を運用するためには、ネイティブの真似から始まる「音の訓練」は必須です。

英語の母音は日本語以上に種類が豊富で、確かに難しい面もあると思います。ですが、僕が特に英語学習者に意識してもらいたいのは「子音」です。

日本語は母音を聞き取る言語なのに対し、英語は子音を聞き取る言語です。僕たち日本人はShをShiと発音します。 「i」を発音しちゃうんです。Shとシは母音の有る無しの違いなのです。英語のShには摩擦音はあっても母音は含みません。なので、CDでも良いですし、個人指導でも良いのですが、英語のレッスン、特に音読(Read Aloud!!)のようなレッスンのポイントは自分が子音をきちんと出せているかに注意したら、グ〜ンとレッスンの質は高まると思います。

その結果、耳が自然に日本語にはない英語特有の音を聞き分けてくれるようになります。いわゆる「英語耳」ですね。例えば、音と音がくっついてしまうリエゾンのような場合、Pick it up→ピッキラップに聞こえますが、元の文字が連想できるようになるはずです。

結論として言えることは、Read Aloudのような音読によって、英語のネイティブの音に慣れ親しむ必要は絶対にありますが、入学試験の発音問題と、実際の発音はかなり隔たりのあるものだと言わざるを得ません。その意味で、今後益々英語の試験における発音問題は消滅していくと思われます。が、徒に日本人の発音コンプレックスを刺激するこうした試験は、逆にわざとダラダラと何処かで出題され続けるのかもしれません。

発音記号はヒントですが、すべてではありません。むしろ、積極的に音を出さしてしまった方が良い。

そうです。恥ずかしがらずに大胆に音を出すことの方が、本物の語学学習であり、生涯自分の財産になるのは音と共に身についたその言語特有の「リズム」です!

リズムはアクセントなんかじゃありません。リズムはその言語の持つ鼓動のようなもの。僕らに日本語のリズムがあるように、英語には英語の気持ちの良いリズムがある。そのリズムを体得しましょう!

意図的に吹き込まれ、捏造された発音コンプレックスを吹き飛ばしましょう!

楽しむのが一番!!!

夏スペ・タイフ〜ン

 

台風8号接近!

台風8号接近!

 

早くも今日から「夏休みスペシャル」レッスンが開始しました☆

これから別のタイミングで始まる夏スペ・レッスンもあります。がしかし、台風が接近している今日。まさにこのタイミングで、ひとクラス開始です!

やっぱり三時間っていうのもあっという間ですね。
なにしろ、集中の仕方が違います。英語を使って学びつつ遊びつつ力を付けつつ発展しつつ…。
はじめ小さかった声も、徐々に大きくなり、だんだん基準の声の大きさが二割増しか三割増しになってくる。すると、音読は効果を発してくるんだな。
僕のクラスは歌も歌うし、文法もきっちりやります。そして、徹底的な音読☆これに尽きる!

V-netの重要な理念に「国語力」があります。
今、我が国は変な方向に進み始め、やたらに早期教育で英語!と言った発言を耳にしますし、そんな方向で文科省は動いているようですが、ハッキリ言ってそうした言説に惑わされてゃいけません。
何と言っても我々日本人にとってまず大事なのは国語力です。間違いありません。
だとすると、英語は?
英語は重要なツールであり、修得すべき第二言語です。

だからといって、ネイティブになる必要などありませんし、ネイティブが偉いわけでもありません。
大事なことは、遠慮せず、間違いを恐れず、恥ずかしがらずに、英語を使い込み使い倒すことです。
日本語のベースがあって、初めて第二言語は深みを増すでしょう。
日本語のベースがあって、初めて英語及び多言語の修得は意味を帯びてきます。

何度も繰り返し言ってきたことですが、言語は暗記ではなく「慣れ」です。

それには、僕らが日本語を習得したときのように、あの幼子のように、恥ずかしがらずに大声で音読することです!!
己の声に耳を澄ますことです!!
誰よりもまず、己自身の声は、己自身で聞きたいものです。
これをフィードバックと言います。
音読とは声をフィードバックさせ、意味世界を自分の声を通して立体化させる技のことです。

さぁ!明日は台風が東京直撃だそうですが、なんとか夏スペの第二回をやり遂げたいと思います!

明日も、待ってるぜ!!!

セッツ☆ってなに???というお話

「なんで、セッツなんですか?」って訊かれたので、答えようではあ〜りませんか!

セッツとは「摂津」でも「節津」でも「拙詰」でもありませんョ。

On your mark! Get set! Go!:「位置について!ヨーイ!どん!」
のGet set!の「set!=セッツ!」です!!!

すなわち、「行くぞ!」ぐらいの感じかな???

つまり「行くぞ!」先生なわけです。

史上最大の台風(?)らしい台風8号が本州に接近しつつある今、「行くぞ!」って吠えても、「おいおい、どこに行くんだ?」という気は少々しますが、いいんです!

今週もまた全力で駆け抜けようと思います!

嬉しいことに、夏の様々なスペシャルイベント、及びスペシャル講座に続々お申し込みがあるようです☆
いいねぇ!燃えてきます!!!
これは、走り出さなきゃいけないね。じっとしていたのでは、良い夏は過ごせません。やれることを最大限にやって楽しみたい!夢中になって取り組んで、気がついたら秋だった、ぐらいがちょうどいいのでしょう。

さぁ、セッツ(行くぞ!)先生は、今日も駆け巡ります。
眼鏡を掛け直しながら、燃えますよ!

セッツはSet!だよ!

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風を撮る!

 

 

雨が降る雨が降る…と警戒ばかりしていてもしょうがない。

雨が降ったら濡れていこうじゃないの!

そんな折、さっき、書斎で作業中、ふと外を見ると風が吹いていた。しかも、気持ちの良い緑を揺らすそよ風だ。

僕は、手元にあったスマホで19秒ばかり動画を撮ってみた。

たった19秒の動画に風が映ればいいな!そんなことを不意に思って撮ってみたんだ。

 

昔は、すべて記憶していたもんだけど、今は19秒を撮っておくことができる。保存する気になれば保存も出来る。でも、一瞬の想い出は自分だけのもの。その時間、その場所で体験した者のみが味わうことが出来るもの。

当たり前の風景が、19秒に切り撮ってみると、二度と戻らぬ万華鏡の世界に僕らは暮らしていることがよく分かるんだな。世界は万華鏡だよ。二度と同じ事を繰り返すことのない万華鏡だ。その意味で、今こうして同時代を同空間で共有し合っている僕らは、皆同じこの世界の住人に過ぎない。上も下もない。イデオロギーもない。偉いも偉くないもない。悲しいほど皆同じ運命を持っているのだ。それは、後100年、もしくは150年したら、今のこの世界に生きる者は誰一人いないという現実。

生とは、その短い時間の中で、できる限り努力して味わうこと以外に、何があるだろう?

風を19秒間だけ、撮ってみて、僕は世界がいつまでも同じであり続けるという幻想から抜け出せた気がする。

経済学者がなんと言おうと、金融で世界ができているわけじゃない!銀行が世界を創り出しているわけじゃない。政府が世界を保障しているわけじゃない。

世界は、僕らが創り出しているんだ。

刻々と変わるこの世界を、僕らは毎秒毎秒創り出しているんだ。

 

風をもっと撮りたくなってきた!!

 

 

 

 

窓をあける☆

窓をあける☆

窓をあける☆

入道雲が、緑に茂る桜の木の向こうに見える。
また今日も夕方から激しい雷雨だそうですが、昼時はどこか穏やかな空気が流れています。

 

様々な言説が入り乱れて、この時代はまさに喧噪の中にあります。
W杯の視聴率が意外なほど悪いそうで、あるテレビ局など、W杯を視聴しないのは「非国民」ではないのか?などと言い出す始末。

今この時代にテレビを付けっぱなしで一日過ごす人などごく少数に限られるのでしょうが、我が家でも、毎朝ついていたN○Kの7時のニュースすら、「嘘つきの話は聞きたくない」と遮断。テレビがオンになるのは、週に30分になりました。そんなものでしょう、現実は。
テレビの音が消えると対話と思考と読書がはじまる。
この三つは現代人が置き忘れつつある本当の意味での「三種の神器」であります。

穏やかな風が窓から吹き込んでくるので、さっきから生きている本当の悦びは、テレビや新聞やゲームやスポーツ観戦や居酒屋にはないな、と思ってしまう。
勿論、かなりの偏見ですけどね。
たぶん、受容する時の姿勢の問題なんだと思う。自分で選択しているように錯覚させて、僕らを方向付けるのがマスメディアの力です。良くも悪くも、僕らの無意識や潜在意識に影響を与え、判断力を奪う力です。マスメディアの力は自主的判断力の奪取にある。それを人は「情報」と言ったり、「教育」と言ったりします。しかしながら、それらはすべて「洗脳」と同義でしょう。

生徒たちと楽しく音読するロアールド・ダールの「チャーリーとチョコレート工場」はその辺のことを児童文学のふりをしながら、実に巧みに描いています。
途中でこの本を放棄した人は、決して予想しないであろうテーマが最後の最後にウンパ・ルンパ人の歌で表現されるのです。
つまりは、テレビを中心に受動体験ばかりを重ねるうちに、多くの子供たちが思考力のないロボットのような存在になっていく。目を覚ませ!本を読め!スクリーンの中に真実があるわけじゃない!人生を味わえ!読み、考えろ!偽物をうかうかと受け入れるな!
六十年代に出版されたこの物語は、五十年も前にすでにテレビ的マスメディアによる洗脳教育に対し警鐘を鳴らしていたのです。

生徒の一人によって提供されたダールのもうひとつの傑作「マチルダ」では、天才少女マチルダが読書を黙々と重ねることで、この世界を正しく見る尺度を手に入れていく姿が描かれています。

最近iPadで授業だとか、パソコンをもっと大量に教育現場に導入せよだとか、書物より「映像」もしくは「動画」の方が優れているかのように喧伝されていますが、僕は眉に唾して聞いています。
障害のある場合、iPadやパソコンは役に立つ。まったくその通りです。デジタル機器で読書するのも確かに便利です。
しかしながら、もし可能なら「紙の本」を手に取りたい。
僕はそう思う。
なぜなら、紙の本は、食べるように読めるから。
ページを折り曲げ、時にはページにメモを書き込み、コピーしたり、書き写したり、場合によってはちぎったり(これは反則だけど)、まぁとにかく紙媒体は遣りたい放題です。僕はこれが「読書」だと思っています。

昔、寺山修司は「書を捨てて街に出よう」と言いましたが、僕はこう言いたい;

「モニターを捨てて、窓を開け、本を読もう!」

きっと、僕たちの混乱はこんな所から変わっていくかもしれないな。

僕の本棚

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僕の本棚

仕事用の僕の本棚が、これ。

生徒たちとの思い出が詰まった本棚です。最初は必要な参考文献として置いていた書棚が年月と共に、生徒たちと共有した様々な時間の結晶のような気がします。

たかが本ですが、されど本です。
テレビや新聞をはじめとして既存のメディアが死につつある現在、ネットが唯一正しいメディアだなどと言う気は毛頭ありません。ネットは今も昔も相変わらず、ゴミ溜めです。しかも、規制とコントロールと誘導が日々強まっています。結局、そんなゴミ溜めを宝の詰まった宝庫にするにも、リテラシーが必要とされるでしょう。
リテラシー、すなわち読み書きの能力は、受け身を強制するテレビジョンによって、確実に奪われてきたのだと思われます。何となく気分を書く学校時代の作文や感想文は、決して文章を積極的に書く姿勢を生まないばかりか、寧ろその傾向を潰してきました。
僕のかつて教えていた学校の小説のワークショップのクラスでは、多くの生徒が本を読むことを嫌がり、挙句の果てに「他人の本を読ませて、僕の個性とオリジナリティを潰す気か!」と逆ギレする始末。結局、まとまった作品は小説も戯曲もシナリオも詩も生み出すことはありませんでしたね。当然だと思います。溜めたものがないのですから。溜めたものを吐き出しながら循環していくのが、呼吸であり、栄養の供給と循環であり、生命のリズムでしょう。

実に不思議なもので、お金はあれほど貯めたがるのに、心の中に読書を通じた「追体験」を溜め込むことをしたがらないという事が起きています。
全ては循環ですから、溜めたものは吐き出す。吐き出したら取り込み溜める。そして、また吐き出す…。その繰り返し。

僕らの生活で「書物」はそんな精神的循環の基本を為している存在だと思われます。それは血であり痴であり知であります。無駄な馬鹿なものかもしれないけれども、人の人生に欠くことのできないもの。書物はいつも静寂の中ですぐ傍らにおり、僕らを見つめ、必要なときに僕らに語りかけてくるもののような気がします。
僕は本当に「書物」はありがたい!と思っております。

リテラシーは結局の所、読書からしか得られないと思います。しかも、時間のかかるものでしょう。一朝一夕にはリテラシーは築かれない。だから、やめてしまうのか?それはあまりに残念なことです。時間をかけて、生きているかぎり書物と付き合いたいものですね。付き合っているうちに、結果として、オマケみたく、リテラシーが付いちまったぜ!というのが正しい。僕はそう思う。

本の世界も、当然ながら玉石混淆。良いものも駄目なものもある。全部読めばいい。読んでいるうちに、なんか分かってくるんだよな。ほんとに。時間はかかるけど。いいんです。じっくりやるんです。

最近の生徒ととの音読で発見したこと。
世間で大好評の「ハリー・ポッター」よりも、批判の多い「ハンガー・ゲーム」という血みどろの作品の方が遙かに人間的に深みのある作品だということ。なんでも、先入観で遠ざけず読んでみるものですね。どちらの本もペーパーバック版を読みましたが、誰も比較することもないでしょうが、比較すると「ハリー・ポッター」は確実に浅薄です。どちらも親を失った一種孤児の物語ですが、ハンガーゲームはその孤独と向き合って書かれている心に痛い物語です。生徒のリクエストがなければ読むことはなかったかもしれないけれど、出会えて良かったと思います。

僕の本棚はそんな想い出がいっぱい詰まっています。
ありがたい。

 

 

自意識について

西荻の空なのだ!渦巻く世界さ!

西荻の空なのだ!渦巻く世界さ!

 

今のところ、誰もこの新ブログに気がついていないので、それはそれで面白い。

これこそ、つぶやき?ツイッター?ウィスパー?

今回の呟きは「自意識について」。

自意識とは「自分を他者がどのように思っているかという意識」です。自己意識とも自我意識とも違います。それらは「自分自身が自分自身を認識する意識」のことであり、他者の目は意識してはいない。
ここで重要なのは「他者の目」です。
近年人工的意図的に広まった「自己責任」という言葉と、もうひとつ「空気を読め」という言葉がありました。

この「空気を読め」という言い回しこそ自意識を搔き立てる精神的トリッガーになっていると思われます。というのも、他者を絶えず意識し、周囲(特定の集団内の周囲に限定)に気を配り、合わせ、はずさないようにする。自意識をこれまで以上に搔き立て、刺激し、屈折させ、悦びを挫折させる。自意識がなければ、バランスの悪い生き方になるでしょう。しかし、何よりもバランスが大事というわけでもありません。僕らは皆一様に偏っていてバランスがそもそも悪いのです。だから面白いのですが。個性など敢えて言わなくても皆個性的なのです。更に言えば、周囲の目に合わせることでとられるバランスなど、本当にバランスがとれているなどと言えるものでしょうか。それは周囲の偏りに迎合し服従しているだけではないですか。
現代の価値観の押しつけや社会的傾向が、一層過度の自意識を生み出しているような気がしてなりません。

自意識はとても大切な認識形態のひとつにもかかわらず、それ以上に生きにくさを生み出す可能性もあるものです。
恐らく、過度が良くないのでしょうが、そもそもどの程度が過度なのかは分かりませんし、case-by-caseで判断の難しいところではあると思います。
ただし、この自意識の渦というか、自意識の混乱のようなものが、確実に今の時代を覆っているのは確かでしょう。自意識は今病に近づいているような気がします。
おそらく、他人の目を気にするな、という単純な言い方では改善されない、何かがある。この場合の「他人」や「他者」は身近な人物限定であることが多いし、全く見知らぬ他者であれば自意識より「無関心」の方が普通になっているようです。すなわち、知り合いや仲間内の強烈な自意識が立ち上り「比較」し合い「カテゴライズ」し合い、分け、グループ化し、再編する、を繰り返しているのかな、と思います。クラス内の一グループといった上下関係や社内のハラスメント等もこんな自意識のせめぎ合いの中で起こっているというのも、一部にはあるのではないかと思います。現在検証中。

今、僕らは己自身の「自意識」に意識的なってもいいのかもしれません。
気にする必要のないことを気にしている自分も、必要以上に傷ついている自分も、他者に厳しい自分も、すぐ比較して考えてしまう自分も、過度の「自意識」から生まれているのでは?と立ち止まって考えてみる必要もあるように思います。

最後に一言:
「他人は自分が思っているほど、自分を見てやしないよ」
これホント。